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日本輸出刃物工業組合(1984)『「鉄と日本刀」関の刃物の歴史』吉田印刷紙工.

   

・備忘録

題名に『「鉄と日本刀」関の刃物の歴史』とある通り、
関と刃物の関係を克明に書いた本。
特に、鍛冶屋祭りや春日神社の由来に関しては、
非常に参考になりました。

以下、参考になった文章を抜粋します。

P2
鞴祭の由来
鞴祭(フイゴマツリ又はタタラマツリ)は現在11月8日に
全国の鍛冶職が挙って祭事を行い、鍛冶屋祭とも称するが、
その由来には諸説あり、そのうちの一説は次の通りである。
これは岩見国邑智郡目貫村に住む岡崎篤三氏の祖父は刀匠であり、
その祖先も歴代刀匠であって、同家に伝わる
鍛冶職由来縁起という古文書に記されているものである。

神武天皇が筑紫国日向の高千穂の峰に登り、
東の方をご覧になると夷敵が多く、これを平定しようと思われ、
日天に向って五百串を立て御祈りされると、
天空から八頭の烏が飛び来り、先導すると東方へ飛び立った。
これに従って出陣されると、国々から御味方に馳せ参する陪臣が多く、
備前の福岡まで軍を進めて着陣された。
そしてこの里に鍛冶師は居ないかと尋ねられ、
味眞治命、道臣命、椎根津彦命、天富命の軍勢に詮議されたところ、
天津麻羅という鍛冶師が居るということで彼を召出され、
剣一千振、斧一千振を作るように下命された。

この時、又、八頭の烏が丸鎖を啣えて飛び来り、これを天津麻羅に与え、
同時に天から鞴(フイゴ)や金敷が降って来た。
丁度この日が冬11月8日であり、天皇は暫くこの地に行宮を設けて帯留された。
これが即ち高島宮である。

この時、天皇は46才の御年であり、未だ即位される前のことである。
天津麻羅は鍛冶場を設け、剣、斧、矛などの全てのものを作り献上したのである。
天皇は天津麻羅を鍛冶の庄として天国の名を与えられた。
天国の険の焼刃は阻阻を含み、曜霊丸、夜光丸と銘が入れられた。
以後11月8日は鍛冶職の鞴祭として祝祭するようになったという。

(注)
神話では八頭の烏が神武天皇を先導するといったり、
鉄の丸鎖を啣えて飛び来たりするのであるが、
当時の治金師や錬金師が黒装束に烏帽子をかぶっていたものと想像すると、
八頭の烏とは、多勢の治金錬金師のことで、
彼らが神武天皇の御力になると申し出て、
鉄の文化の力を十分に発揮したものと考えられ
この方が当時の状況ともぴったり辻妻が合う気がする。

P21
兼光は藤原氏の祖神である春日大明神を勧請し、関鍛冶の祭神として神社を建立した。
これが現在の春日神社であり、後に初代孫六兼幸が鍛冶総代としてこれを再建した。

P24
奈良太郎兼常は兼光の子孫で千手院とも銘を切る。
兼常、兼枝、兼景、兼住、兼貞はこの子孫である。
尾州美濃守政常もこの家筋である。

日本刀の他産地では、全て刀匠たちが、宮廷、幕府、大名など、
時の権力者による庇護を受けたのに対して、関鍛冶は春日神社を中心として、
鍛冶頭七人を立て、掟を定め、鍛冶全般に互って合議決定する統治組織が作られた。
今日で言う需要と供給、生産と販売機能を刀匠自身が持ったのである。
このことが明治維新(開国)を迎えて保護者を失った他産地の刀匠が
職を失ったのに対し、一早くポケットナイフ、家庭用刃物の生産に切り替え、
内外の需要に対し、自ら販売を行う体質が函養されてきたものと考えられる。

P25

関鍛冶七流の鍛刀心得として次のことが記録にあり、味わい深いものである。

(1)
刀剣は物が良く切れ、折れず曲らず、且つ反りの形の釣合、肉置きが敢要である。
然しながら、ややもすると焼刃模様にこだわり本意を失う者が多い。
見た目の良し悪しより、刀としての切れ味が大切である。
されど、諸国の名人で景様を好まない者は無いので、
景様についても無用と考えてはならない。景様が自在に出来ることで名人上手となるが、
元を忘れ末に走ってはならない。元を修得すれば末は自然に得られるものである。

(2)
上作刀は刃色白く地色が青し、中作刀は刃色青く地色が黒し、下作刀は刃色黒く地色白し、
この他、鋼の弱すぎるものは、脱炭して刃物として用に立たなくなり、又、
鋼の材質を破壊したものは刃の本質を失ってしまう。
刀匠たる者は、上作、下作の鉄を見分けることが大切で、これを鍛冶目利きと言う。
鍛冶目利きも出来ない者は、自作の刀の良し悪しも判らないことになるもので、
刀匠は鍛冶目利きを心得るべきである。

(3)
焼刃の火取りが強い時は、鍛えがゆるみ刃こぼれし易くなる。
焼入れ技術の未熟な者は、火をもどして刃こぼれを止めることを行うが、
これでは刃こぼれが止っても、かけ易くなってしまう。
この様な小手細工を行うのは、刀匠ではなく素人鍛冶のすることである。

P26
正応元年(西暦1288年)、刀祖元重の子、金重(正宗十哲の一人)と
兼永(大和鍛冶、包永忠次郎、関へ移住して兼永と改名)が関鍛冶を総代し、
南部(奈良)より春日大明神を勤請し、春日神社を建立した。
そして後に、足利六代将軍、義教公の永亨5年(西暦1433年)には、
関鍛冶中、孫六兼幸が願主となり、これを再建し今日に至っている。
春日大明神を関鍛冶の総氏神としたのは、刀祖元重が藤原鎌足公の一族家臣、
兼信の嫡流であり、鎌足公の末葉として藤原氏の祖神である春日大明神を
関鍛冶の守護神としたのである。

P27
古来より鍛冶職の氏神として南宮神社があるが、関鍛冶と春日神社との関係は上述の如く、
春日神社が関鍛冶の全ての中心となってきたのである。

P33
弘長3年(西暦1263年)に関鍛冶の始祖、六郎左衛門尉元重が関に来住して
刀剣作りを始めて以来、関は刀剣の産地として栄えてきた。
応永2年(西暦1395年)の関鍛冶の記録には鍛冶99名のうち、
刀剣だけ制作する刀匠は一部の者だけであり、多くは包丁、小刀、剃刀、はさみ、針
などの打刃物を作ったと記され、又、享保5年(西暦1720年)の記録にも
鍛冶90名のうち、刀剣だけを作る刀匠はその一部となっている。

・前文

関の孫六に代表される関市刃物産業は、今や西独ゾーリゲン市と共に、
世界の刃物産地として高い声価を得ています。

750年の伝統産地である関の刃物は、単に技術の伝承だけではなく、
永い歴史を支えてきた先人たちの気骨や気性が、
そのまま受け継がれ、刃物作りに対する誇りと情熱が今日も生きています。

このたび、関市産業振興センターが刀神を祀る春日神社の隣接地に建設され、
関の刃物の歴史が纏められましたことは、まことに意義深く、
心から欣快に存ずる共に、関市刃物産業が内外に向けて、
ますます発展することを念ずるものであります。

関市長 堀部四郎

・目次

1.鉄の古事来歴
1-1.古代の人間生活と鉄
1-2.鞴祭(フイゴマツリ)の由来
1-3.砂鉄の出来る自然条件
1-4.世界共通のタタラ
1-5.鉄の生産工程とその進化
1-6.砂鉄の種類
2.刀の古事来歴
3.刀剣鍛冶の歴史
4.日本刀の芸術的価値
5.関鍛冶の始まり
6.関鍛冶七流
7.関鍛冶と春日神社
8.関伝鍛法
9.関鍛冶と現代刃物工業

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